感動の源泉(1)

「感動」と脳

 

心脳領域から「感動」を考えてみるためにも、少し迂遠になるが、脳や心の仕組みやはたらきの内、特に強い心の動きにかかわりがある事柄に話題を絞っておさらいしておくことにする。

 

先ず脳のはたらきからみていくと、人の脳は、生物進化のプロセスに由来する異なった性質を持った次の3層からなる構造をしている。

  • 爬虫類由来の脳(脳幹)
  • 動物由来の脳(大脳辺縁系)
  • 人間の脳(大脳新皮質)

生物進化の考えでは、始めに体を動かす神経が発達し、生命を維持するための本能をつかさどる「爬虫類脳(脳幹)」がつくられ、次にそれを覆って感情・情動を司る「動物脳(大脳辺縁系)」が形成され、さらにその外側に理性や思考を司る「人間脳(大脳新皮質)」が発達していったとしている。

 

いいかえれば、人間の大脳は、爬虫類、動物、人の3つの心を同時に持っており、爬虫類の心は食欲や性欲などの本能欲求が命ずるまま行動することを身体にもとめ、動物の心は感情や気分で行動することをもとめる。そして人間の心は合理的・論理的な判断と思考した上で行動を起こす、というわけである。

 

大脳に連なる間脳、中脳、小脳、脳幹、脊髄は、大脳からの命令を実行する一方、環境についての情報や刺激を適切に大脳へ伝え、それらに対してどのように反応するかの判断を仰ぐ。

 

つまり人間は、この3種のレベルの脳の間で生じるさまざまな感性作用の葛藤を調整しながら、さまざまな精神活動を営み日々の行動を決定している。

 

感動の源として最も原初的な情動が快・不快である。この情動を生み、生物の行動をコントロールするいくつかの脳内システムがあることが分かっている。

 

下図の左枠内が不快や不安、恐怖など負の情動にかかわる脳内システムで、右の枠内の部分が快感や満足感などの正の情動にかかわる脳内システムである。

 

 【情動神経回路の概略図】

 

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ここでは「快感・報酬系(以下、報酬系)」と呼ばれる、快-情動を生じさせる脳内システムに注目する。

 

報酬系は人や動物の脳が欲求を満たされた時、あるいは満たされそうなことが分かった時、または報酬を得ることを期待して行動する時に活性化して、その主体に快感を与える神経系である。

 

哺乳類の報酬系は、大脳辺縁系にある扁桃体という箇所を中心としたドーパミン神経系(別名A10神経系)と呼ばれる、次のようなシステムである。(上図参照)

 

なお、ドーパミンは、運動調節、ホルモン調節、快の感情、意欲、学習などに関わる脳内神経伝達物質である。

 

1扁桃体→視床下部を経た情動刺激や、腹側被蓋野と呼ばれる中脳の領域を経由した快感刺激が、大脳腹側の深部にある側坐核という神経細胞集団へ伝わって、2神経伝達物質ドーパミンの放出を促し、脳内に心地良い感情を生む。3同時に自律神経機能とホルモン分泌の中枢である視床下部に伝わり、自律神経反応などを引き起こす。

 

だから"震えるような感動"とは、生理面からいえば、このような脳内回路を経た自律神経系反応による、呼吸や心拍数の変化、筋肉が緊張するなどが生じた状態のことをいう。

 

こうした脳内回路は他にもあり、これらがドーパミンや「脳内麻薬」βエンドルフィンをはじめとする各種ホルモンを複雑に働かせながら、さまざまな情動・感情を生じさせるのである。

 

情動は、通常の思考過程を経ず、ほとんど無意識的に身体性をともなって即座に反応するものであり、感情は、通常の思考過程を経て継続的に形成され変容もしていくものである。だから情動は感情に先行する。このことは情動が生命を管理するホメオスタシス(恒常性)による反応であることと、大脳の3層構造に由来する。

 

そのため"報酬系"はその最も基本となる情動のシステムであり、根源的な行動原理の一つとされる。

 

こうした理由もあって、脳科学の分野では、意識に上る感情をfeelingとし日本語の「感情」をあて、意識に上らない脳内過程をemotionとし日本語の「情動」をあてて区別する。

 

その上で脳科学では「感情」を、"不確実で与件情報の少ない状況で個々の人間に生じるメカニズム"と解釈する。

 

また、この報酬系を活性化させ、ある行動をとると報酬がもらえ、別の行動をとると負を被るフィードバック系のもと、より大きな報酬をもらえるような行動に変化させていくのが、脳科学でいう「強化学習(Reinforcement Learning)」のモデルである。これらの知見は、教育分野にとどまらず、ビジネス分野にも導入され、「情動マネージメント」や「情動マーケティング」という新しいビジネスコンセプトを生み出しつつある。これらの戦略の上からも感動が鍵ファクターのひとつに数えられるが、ここでは触れない。

 

また、ついでに言えば、情動―感情に対応しそれを生起する動因は、欲求―欲望である。哲学者スピノザは、欲求を"ある特定の動因によって活発化する有機体の行動状態を意味する"とし、欲望を"ある欲求をもっていることに対する、そしてその欲求の最終的な成就または挫折に対すること"としている。その上で「明らかに人間には欲求と欲望があり、情動と感情がそうであるように、それらはシームレスに結びついている」といっている。

 

このことについて脳科学者は、情動と感情はホメオスタシスをはじめとする"生命調節"という、生物の最も重要で基本的なプロセスの中で因果的につながっているから、情動は「身体」という劇場で、感情は「心」という劇場で、それぞれに演じられるものだという。

 

とすれば、「感動」の価値や有効性を考えていく上で、この"生命調節"を"生活社会"に置き換えて考えてみてみることも面白いかも知れない。

 

こうした見方については「社会脳(social brain)」がある。

 

ヒトや霊長類のような高次な生物の脳の進化は、集団生活にともなう社会関係の認知の必要性によって促されたとする仮説である。

 

生物の器官のうち脳は最もコストが大きくかかり、ヒトの場合、脳は体重に対し2%程度にすぎないが摂取するエネルギーの約20%を消費する。このような高コストの器官が進化するには、それだけの見返りが必要である。大きな群れで生活する霊長類にとっては、群れ内の順位関係や親和関係をきちんと理解し、他者をうまく社会的に操作することが、生存や繁殖のうえできわめて重要である。さらに、相手が何を欲し何をしようとしているかと心を読むことは、相手も同様のことをするため両者の手の内の読み合いになる。その結果から知性の進化が加速したというのである。

 

このことを前提に、神経活動レベルでの事象が身体的な反応につながり、個人―集団―社会レベルでの事象へ同期させ捉えていくのが「社会脳」研究である。いいかえれば、ヒトや霊長類の文化的・社会的な物事を感情・情動のプロセスで方向づけアプローチし、その脳神経的基盤をどこまで解明することができるかであり、端的にいうならば、社会事象や社会行動に関する脳科学的な研究である。

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感動・感情について代表的な生理の仕組みについてはここまでとし、次回では心理学の視点からもみていく予定だったが、「感動と経済」というテーマへのリクエストがあったので、今回の題材とも関連深くテーマを考えていくための根拠、というか参考となる経済学の新パラダイム「神経経済」について"特別編"としてふれてみようと思う。

(・・・・to be continued